中緬国境地帯〜金色に輝く山脈
1991年、私の上海駐在時代のことである。雲南方面を見てやろうと、休暇にぶらりと上海から昆明に飛んだ。そして昆明の空港で雲南省内の別の都市への空き便を探し、更に芒市という町へ飛んだ。この町の名は聞いたことがなく、場所もわからずに飛行機に飛び乗った。この頃はまだ若かった。本当に気まぐれな旅だった。
1時間ちょっとで南方の緑眩しい山間部に飛行機は着陸した。空港を出ると、徳宏タイ族・ジンポー族自治州と書いてある。そしてミニバスが空港の外で数台待機していた。行き先は「瑞麗」。
瑞麗とは雲南最南端の町だ。シーサンパンナの西に位置し、ビルマ国境(現ミャンマー)の山岳地帯を越えれば北ビルマの要衝・ミッチナーである。ミッチナーの西はビルマ・インド国境インパールへと続いていく。
バスで瑞麗に出て、小さな洋風のホテルに入ると、いつものようにタクシーをチャーターして辺境視察としゃれこんだ。
「少数民族のいる国境の村が見たいんだけどなあ。」
と運転手に告げると、
「そんなものは、この辺いくらでもあるよ。」
と言って、喜んで連れて行ってくれた。
山間部。勿論舗装されていない土の道を1時間も行くと、ジンポー族の村があった。
黒っぽい民族衣装に加え、女性は真珠のようなものを沢山付けた帽子をかぶっている。しかし、水牛を使った農作業はどこにでも見られる農村風景だ。美しく広がる田園風景と点在するジンポー族の姿を見ながら散策した。
ジンポー族は保守的で、見知らぬ人間がいると何となく近づいてこない。田んぼの向こうに森が見えた。この森を目指し、田んぼの中の小川を跳び越すと突然運転手が遠くで騒いでいる。彼が言うには、その小川が国境ということだった。
ビルマの国境警備隊が巡回していて、少数民族は捕まらないが、中国人や外国人は見つかると連れて行かれる。罰金もとられると言っていた。しかし少数民族は私の目の前で、国境線がないかのように好きなように行き来している。私はこれを指を加えて見ているしかない。不思議な国境である。
この辺りの国境線は小川や大木等の目印があり、それが境となっているようだ。ここに住んでいなければ、こんなものが国境とは誰も思わない。
夕刻、中国ビルマ国境を流れる瑞麗河のほとりに立ってみた。
多くの少数民族が自転車に乗り、瑞麗河の渡し舟に乗り込む姿が見える。夕焼けがビルマ国境の山岳地帯を赤く染め、瑞麗河がキラキラと美しく輝いていた。そんな光景の中を、少数民族の人々を乗せた小さな渡し舟がゆっくりと対岸のビルマへと消えていく。手を振ると少数民族衣装の女性が手を振ってくれた。カレン族だろうか。タイ族の姿も見られる。
幻想的だった。あたかも、天国へ渡る河を天女たちが手を振りながら渡っていくかのようだ。
この時の光景は、中国全土を旅した私にとって、最も心に残る光景の一つである。静かに、ゆっくりと船は遠ざかり、シルエットとなって対岸に消えていった。美しさに言葉も出ない。
この辺りのタイ族は、今のタイの源流となった人々である。雲南南部からラオス・チェンマイを制したランサーンやランナータイ。これら王国がタイ北部の源である。
「源流」。正にこの言葉を連想させる秘境であった。
夜、瑞麗の大通りで一人ビールを飲んだ。旅行者や商人たちと話すと、インドやパキスタン、ビルマやラオスから辺境貿易で来ている人が多い。皆片言の中国語を話し、フレンドリーだ。実は、山間部に開けるこの町は中国と東南アジア、西アジアを結ぶ陸の要衝であった。そんな中、戦時中30万人と言われる日本人がインパール作戦でイギリス・インド連合軍に大敗し、この辺境に敗走してきたことを聞いた。インパールでの大敗からビルマ戦線での敗北、そして日本から遠く送られた人々は、この山々を越えて敗走した。食料もなくマラリア等の病気で多くの人々が倒れ、この地に沈んだ。
雲南をそのように捉えている日本人がいるだろうか。思わぬところで歴史がつながる。
「ビルマの竪琴」の水島上等兵の姿が脳裏に浮かんだ。そのままビルマや、この辺境に溶け込み姿を消した日本人もいるかもしれない。少数民族と結婚した日本人もいると言っていた。
ビルマ人の話を聞き、「歴史」の重みを感じながら、私は瑞麗の夜風に吹かれた。今から思えばこの時もまた、内蒙古・フールンベイル盟で現れたブリアート族の老人同様、この地に散った日本人たちがビルマ人やインド人の貿易商に姿を変えて私の目の前に現れ、かつて駆け抜けていった彼らの時代を私に伝え残したのかもしれない。瑞麗河の彼方に広がっていた夕焼けに赤く染まった山脈が、心なしか優しく、身近に感じた。
中緬国境の夜風が優しく私の心を吹き抜けていく。
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